えっ? 見沼田んぼにも紀州の技?
2023/01/28 (土)

harenotikumori.gif □13:00〜明治大学 紀州徳川家

極寒の中の学びぃウィーク終了。
きょうも学食で昼飯をすませてからと考えていたら、今朝になって娘が、「いま外部の人は入れないらしいよ」と、
しかし、学生の街、食うところはなんぼでもあると予定の時間に出かける。

歴史作家と紹介され、自ら「歴史家です」と名乗る井沢元彦氏の基調講演とパネルディスカッション。

吉宗が紀州から井沢弥惣兵衛為永を呼び寄せ、見沼溜池の新田開発を命じたのだそうで、
1728年(享保13年)、見沼溜池を干拓し、代わりに「紀州流」と呼ばれる技術で、
利根川から見沼代水西縁・東縁を掘って水を引くことにより、見沼は田圃として生まれ変わったということだ。
見沼田んぼを挟む西縁と東縁の堀は運河の役割も果たし、水位に差があるところは堰き止めて調節し、船を通した。
この技術は、紀の川で使われていた技術とのことで、のちにパナマ運河でも採用している閘門式と呼ばれるもの。

さらに当時の紀州は、現在の三重県の南伊勢や松坂(阪)あたりまで含まれており、
厳密にいえば、三越の三井高利も本居宣長も紀州出身になるという。
ちなみに、以前、紀州犬の発祥は現在の三重県の紀州だと調べたことがある。

 
蘖ひこばえの菜園作業メモ
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