2022/11/09 (水)
寝過ごして、じじばばラジオ体操から【常盤平農園】回りの散歩はお休み。 朝めし新聞じゅん散歩後【川井農園】へ。
豆播きの様子見。 採種ツタンカーメンと購入古種2種が動き出してる。 蚕豆はケツが割れた状態から動きなし。
◆収穫◆巻いてない大きなミニ白菜
10月23日の続き 実家→野崎→善明寺→六十谷→叔父→実家→中之島・夕飯
実家近くに住む叔父は、ぎりぎり大正生まれの97歳。 かなり危ない。 ヘルパーさんが来てくれて、同じ敷地内の裏手に孫がいるとはいえ、息子親子にいいようにやられている感じで。 話が前に進まないどころか後ろに下がってばかりで、自転車返却の時間(日没30分後)もありで、途中にてお暇。 「12月にまた来るから」。
実家へ寄って、持って帰れそうな父母の遺品を引き上げる。 中之島の叔父の家へ。父のいちばん下の弟、86歳。 歳がいちばん近く、いまだに「Tっちゃん」と名前で呼んでいる。 東京の大学を出てからしばらく実家から通勤していたので、その間いっしょに暮していた。 その時代に大学へ行ったのも近所では初めてなのに、和歌山へ帰って来て地場の中小企業に就職。 「東京の大学まで行かせてやったのに」感が強かった母は、それが不満でよく小言を言ってたなぁ。
Tっちゃんもそのことは察していて、実家に来るのを避けていた。 だから、会うのは母の葬儀以来だし、それ以前もほとんど顔を合わせていない。 前触れもなくピンポンしたので、さみしいかな最初、だれだかわかってもらえなかった。 わたしが、中之島の自宅へ行ったのも3度目だった。 最初に行ったのは、わたしが小学校5,6年のころ。 Tっちゃんが職場で知り合ったパラオ出身の女性 (それはそれは別嬪さんで、TVから抜け出しとような、がぴったりの。いまは面影がないけどね) と結婚して、その新婚の家へ兄と遊びに行った。 その時、作ってくれたのが、いま思えばスパゲティのミートソースだった。 見るのも、食うのも初めてで、思いっきり衝撃を受けたのが生々しい記憶として残っている。 フォークにくるくる巻いて「こうやって食うんやで」と教えられたことも。
そういや、Tっちゃんの結婚式の日、大人はみんな式に行ってて、残された兄とわたしは即席ラーメンを食った。 これも味が忘れられないビタラーメンだった。このラーメンの味には、その後も行き会えない。 いまでいう和歌山ラーメンっぽい味だったのかもしれないが、違うなぁー。
2度目は、結婚して嫁さんを引き連れてのあいさつまわりだったから、44,5年前? 家は新婚当時から建て替えたみたいだが、すぐにわかった。 ここの長男(従弟)も数年前亡くなった。 美人だった叔母ちゃんも年には勝てず足が悪いそうで。 5時のチャイムが鳴って、「ぼちぼち」というと、これまたしつこく「まあ、飯でも食いに行こら!」。 「いやぁ、自転車5時までに返さなあかんね」 「そんなもん、かめへん、かめへん! わし、いっしょにホテルに謝っちゃるさけ、飯食いに行こら!」 「いや、あかんて!」 「ほな、ホテルの近くで食おう」の、応酬で。 車の免許証は去年だかに返納したとかで、和歌山駅前のホテルまで、Tっちゃんも自転車でその後ろをついて行く。
めしをごちそうになっていると、知らない番号からケータイ。Tっちゃんとこにいる時も何度かかかってた番号で。 放っておいたら、今度は留守メッセージが。 「カード入れを拾って、駅前の交番に届けている」と。 名刺やら、保険証やら、診察券やらに混じって、スイカのクレジットカードが入ってた。 拾ってくれたのが、時間的にたぶんTっちゃんとこの家の前あたり? さらに、届けてくれたのが駅前の交番とは、またラッキー。めしを食ってたすぐ前で。
そんなこんなの慌ただしい一日でした。 心残りは、もう一人存命の叔母がいる孝子までよう行かなんだこと。六十谷の叔母ちゃんの姉だから90半ば? かなり来ている(ボケが)らしいが、一人で暮らしているとかで。
5時40分 揺れた!
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