白菜、大根2本孫と収穫
2014/02/01 (土)

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孫は、収穫が楽しくてたまらない様子。
こんなことなら、自分の息子にも体験させてやりたかった。
でも、尼崎の市民農園は一度も当たらずで、何度も出すも
全然でした。でも、一回で当選ハガキが来る方もいて、
ほんとうに運が悪かったんです。
まあそれと、市街地ですから農地もほとんどありませんからね〜
でも、息子にも芋掘りには連れて行ったりしました。
楽しかったようです。母の実家に行けば良かったのに、
母は、両親が亡くなり弟になったら、そんなに親しくは出来ないと、
連れて行ってくれません。しかも私は、嫁いだ身なので、
よけいに行けないからと、頑なでしたが、母が認知症になったので、
頻繁に母の実家の墓参り連れて行きました。
最後の同窓会にも連れて行ったりしましたが、
母は、出された懐石料理がどういう風に食べるのかわからないようで、
同窓生の会話にもついていけず、それを遠目で確認し涙をこらえながら、
母を私たちの掘りごたつ風の席まで連れてきて、もう少しおしゃべりを
義伯母も交えてしていると、それまで無口でボーとしていた母が、
ウフフフと笑って、普通に会話していたら、同窓生が集まってきて、
楽しいひと時を母は、感じていたと思います。
帰り際には同窓生の方々が、母のことを全然大丈夫心配しなくてもと
言ってくれたことが私の慰みとなりました。
義伯母は、姉さんが可哀想晒し者になったと泣いていましたが、
そんなことはないと、最後と思えばお別れには丁度いい時期でした。
丹波の言葉は、大阪生まれの私には、理解出来ません。
当時79歳の母らの何言ってるのかわからないと思った私は、
無理に義伯母に私らの付き添いをお願いしたものです。
ほんとうに良かった。中期の認知症でしたが、母の故郷の
言葉を聞けば、自然と会話に入ることが出来たんですね。
もう一つ伯父に田舎へ戻ることを伯父にお願いしましたが、
田舎は閉鎖的で私が考えるようなところではないので、
それだけは無理ですからと断られました。
私が、少しでも田舎の出身でしたらできたでしょうし、
また主人も一緒ならかなったことかもわかりませんが、
これで良かったんだと思うことにします。
私たちの生活まで、母に合わせてきましたが、この地域の
関わりまで捨てて、新しい土地へしかも限界集落へは、
正直、私が住む自信がなかったのでしょう。
やはり私には都会の水の方があっていたようです。
お母ちゃんごめんなさい。
もう少し私が歳を取れば住もうと、もう少し待ってと思っても、
母の病はスピードが早く見る見るまに最終段階まで来ました。
今は、近くに総合病院がある側でないと住めなくなりました。
何度も誤嚥性肺炎を繰り返し、入退院して老健にいて落ち着いていますが、
先生の言う、いつどうなるかはわからないので覚悟を
とうようなところまで来ました。
母は、スプーンが口元に来ればパクッと食べて、
時間が来ればオムツを交換してもらい、日中もほとんどベッドの中
それでも懸命に生きようとする母の姿がそこにはあります。

i0 i1 i2 (1) 4歳の孫が畑にやってきた♫
(2) キャベツ収穫
(3) ダイコン収穫
 
大きくなぁ〜れ♪ しろペンギンのよちよち菜園記 (^O^) 
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