残日録について
2005/01/19 (水)

折角この日記を始めたのだからと、元ネタの藤沢周平の小説「三屋清左衛門残日録」を読み返した。
主人公三屋清左衛門が隠居して始めた日記なのだが、その日記を見つけた嫁の里江との次のようなくだりがある。

「お日記でございますか」
「うむ、ぼんやりしておっても仕方がないからの。日記でも書こうかと思い立った」
「でも、残日録というのはいかがでしょうね」
里江にははなれた机の上においた日記の文字がよめるらしかった。里江は眼に舅の機嫌をとるような微笑をうかべている。
「いま少しおにぎやかな名前でもよかったのでは、と思いますが」
祝い事の掛かりの報告は口実で、嫁はわしの様子を見に来たのではないかと、清左衛門はふと思った。数日沈んだ気分でいた間は、それが外にも現れずにいなかったろう。
「なに、心配はない」と清左衛門は言った。
「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シの意味でな。残る日をかぞえようというわけではない」
<中略>
里江はむきつけに口に出すようなことはせず、そうかといってべたべたとこちらの気持ちに入りこむような言い方もしないで、ただ出来たての隠居の気持ちを若夫婦が気づかっていることを、さらりと告げて行ったようだった。

私の場合は、まだ隠居した訳でもないし、またできる余裕もないのだが、何となく野菜作りを始めたきっかけが、夫婦共通の老後の趣味にしたかったというのが偽らざるところなので、厚かましく小説のタイトルを頂戴してしまった次第である。

主人公三屋清左衛門は最初の落ち込みも払拭し、現役では解決不可能な難事件を、隠居という立場で解決していく。最後には「衰えて死がおとずれるそのときは、おのれを生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ」と悟るに至る。

私にそんな生き方ができるかどうか、いや既に、難しいことや辛いことは積極的に避け、楽な方に無責任な方に逃げながら生きてきてしまっている。この先そんな過去をチャラにするなどということができるはずもない。せめてよそ様には迷惑をかけず、家庭内円満に過ごしていければいいかな、と思うのだが。

 
縦振屋精兵衛菜園残日録
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