系統について part2
2013/11/14 (木)

 例えば実生園の写真を見て手に入れた品種が何度か育てているうちに見た目、特に花や弁の形が変わってしまっていることに気が付くだろう。「あれ変わった?」が分かれ道だと思う。自分はこういう花と言う思いがあれば気づきやすい(自分は典型的)。自分の理想の厚物は貝弁かフラットな弁が欲しいのです。人によっては大きさとか弁の組み方とかそれぞれでしょう。その理想に近い花を咲かた鉢を残したいですよね。違うものなら除けたいです。そして実生園の株を信じて更新をする。でも自分の所にしかない品種やオリジナルは自分でなんとかするしかない。

 本題に戻り「言葉としての系統」を説明。
 例えば完璧な品種「A」が様々な形態が現れるとする。「A」を購入後、数年で花が乱れる「B」、弁がサジ状から管状に変わる「C」、花の色が変わった「D」、花はAだけど茎が短くなる「E」、毎年無側枝となる「F」と花や株の生育状況が様々に変わりそれぞれに「系統」と言う言葉で表現している。
 もしみなさんが「A」と言う花で日本一を取りたい時、
変異が元の「BCDEF」の系統が現れたらどうするのか。「BC」は花形、「D」は花色、「EF」は容姿の問題。どうしますか?「BC」は作り方次第で成功するかもしれないが咲かない場合もある。「D」はある意味嬉しいことだろう、それなりの価値があるかもしれない。「E」はダルマ福助と言った背丈を低く抑えたい作りには向く、これも嬉しい変化かもしれない。「F」は場合では蕾自体が無い状態に陥る可能性も。
 AからBCDEFと言った変化あって複数の系統が現れた時、どのように対処するかは人それぞれ。見た目で現れた変異を元の品種と比べて「Aの〜と言う系統」としたのが『言葉として系統を表現』。これが『言葉としての系統』だ。ただ自分はそうのように読んでいます。

 どう解釈するかは観覧者の自由です。ここまで長文を述べたのはただ自分が、「本来の形こそが美しい」と言うのが菊に対する哲学があるからです。
 最終的には「我が道を行く」ですが…。

 現在風邪を拗らせて講義でも気を使います。菊に哲学を求めてしまっている。全ての学問の基礎こそ哲学、よく分からないかもしれないけど大雑把に言えば「大人になれば当然なことが疑問に思い、追い求める」ことと思っている。ナゼ?を説明しようとすることがこの学問。
 「本来の姿こそ…」、どうしてこの形?何でこだわっている?どうして生まれたのか?とか当たり前のことを考えている。子供並みの疑問が哲学の根幹。
 自分は菊を根幹にしている。

 前日は99回の観覧数でした。沢山に方に見て頂きました。18:20現在すでに51回。

 
北の園芸士の「世界一適当な植物園」
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