大掴み「斗南の月」の定植
2013/06/06 (木)

斗南と言うのは現在NHKの大河ドラマの「八重の桜」の舞台になっている会津藩が戊辰戦争に敗れたのちに会津戦争と言われる戦いにも敗れて(この時に白虎隊の悲劇も起きる) 明治2年(1869年)に会津藩主の容保の嫡男容大は家名存続が許され、陸奥国斗南(現在:青森県むつ市)に斗南藩を立てのだが・・・・

前回のNHKの大河ドラマの「八重の桜」では八重の弟が死んだ事になっているが実際には目を患ってはいるが生きていて、その後京都の顧問を務め八重のその後の人生を大きく変える・・・・・

明治4年7月14日(1871年新暦8月29日)の廃藩置県では、会津地方は若松県となったものの、明治9年(1876年)8月21日には福島県1876年以前(旧の二本松藩など)と磐前県(旧の磐城平藩と中村藩)と合併され、福島県に入れられた。

そんなドラマの舞台の旧会津藩の名前が変わった斗南藩のドラマを彷彿させる菊がある・・・

それが大掴み「斗南の月」(となんのつき)だ・・・・

今年はこの花も何とか立派に咲かせたいと考えている・・・

今日大掴み「斗南の月」を尺鉢に定植をした・・・・

斗南藩の誕生

明治二年(一八六九)六月三日、松平容保には実子慶三郎(容大)が誕生した。
それから間もなくして太政官から家名の再興がゆるされたが、旧会津藩士らには、
南部(斗南)三万石を取るか、猪苗代三万石を取るかの二者択一が迫られることに
なった。このとき、藩の指導的立場の人々の間で意見が両派に分かれて大激論にな
った。つまり永岡久茂らは、一から出直すつもりで南部移住に賛成し、町野主水を
首領とする一派は父祖の墳墓に近い猪苗代を主張して譲らなかったのである。論じ
ている最中、激昂した主水が抜刀して久茂に迫り、久茂は素手でこれを跳ね返すと
いう一幕もあった。
結局、南部を取ることに決まり、明治二年十一月四日、松平容保は隠退、南部三
万石は生まれたばかりの実子容大(かたはる)に与えられることになった。
翌三年一月五日、旧会津藩士四千七百余名の謹慎が解かれて南部に移住すること
が許された。しかし旧会津藩二十三万石の全員が、新封地の南部三万石に移住する
ことはできない。そこで希望者を募り、およそ二千八百戸、家族を含めて約一万五
千人が移住することになった。
四月十九日、南部に移住する者の第一陣三百名が八戸に上陸した。その七月、藩
の名はあらためて“斗南”と名付けられた。漢詩の「北斗以南皆帝州」に因んで命
名されたもので「北辺の地とはいえ天子の領土なのだから、天朝から追放されたの
ではない」と解したのであった。
斗南藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、この
時は五戸に向かったが、のちに政庁の所在地田名部(現むつ市)に移住している。
斗南に移住した旧会津藩士の家族たちは、藩士らより約六カ月後れた十月、会津
から、はるばる陸路にて旅立った。彼らの中には老人や婦女子らに混じって、多く
の傷病者たちもいた。しかも、途中の旅籠代はのちに藩から一括して支払うという
宿札もあったが、宿泊を拒絶する旅籠も多かった。粥をすすり、霙(みぞれ)にう
たれても着替えさえなく、新封地斗南を遥かに拝しながら、無念の涙をのみ死んで
いった者も数多くいた。

i0 i1 i2 (1) 保肥保水剤「根茂土アクアビーナス」を培養土に2パーセント程混ぜる・・・・

効果的に使うコツは寝かせて置いた培養土に植える直前に混ぜること・・・・
(2) くるくるストップベルトの効果が出ている・・・
(3) 3本仕立ての大掴み「斗南の月」の天の芽を最終摘芯をした地・人はそれぞれ五日ずつずらして摘芯をするつもり・・・・

右側の1本仕立ての大掴み「冨山の雲」も1メートルを優に超えたので今日定植をして最終摘芯をした・・・
 
 植える花夢・新たな菊作りに夢中
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