2011/09/26 (月)
朝から曇って寒々しい。今にも雨が落ちてきそう・・・
昨夕4時頃、ワタシは娘とファミレスにでも行こうかと居残りの母とダンナの夕飯支度を始めていたら、ダンナの携帯が鳴った。 (あれ〜、飲み友達かな〜?でも今日はこっちが先約だぞー)なんて身構えたんだけど、電話の様子がなんか変。いつもはなんやかやとヒマ人同士の長話になるのだが、今日はすぐに電話機切って「兄貴が今朝また入院したんだけど、今さっきから様子がおかしいって!おれ病院へ行ってくる!」入院したのはダンナの一番上のお兄さんで今年77歳、ここ数年あちこち加減がよくなくて入退院を繰り返している。 今月初めに腎臓が悪いと太田原日赤に入院して、もしかすると人工透析になるかもとあやぶまれたが、何とか無事で退院したと連絡受けたばかりだ。 胸騒ぎがして「ワタシも行くから!」といそいで支度している最中にまた電話。 「もう危ないんで石林の姉ちゃんも一緒に連れてきてくれって!」 すぐに義姉に連絡して、迎えに寄るので支度しといてと いい、ワタシはウチの留守番に娘に連絡。 なにも持たずに二人で出かけた。 途中、待っていた義姉を乗せて10分ばかりで太田原の日赤に着いた。 日赤に入るのは何年ぶりだろう?それに来年には新しい病院ができるとあって、震災以来修理していない病棟もあり、休日用入り口を探すのに手間取ってしまった。 やっと救急搬入口から入れたら、二女のR子さんが泣きながら待っていて「おとうさん、今さっき・・・」と言葉が続かない。 いそいで病室に行ったけどホンの15分ほど前に亡くなっていて、泣き声が廊下まで聞こえていた。 眠っているような安らかな顔を、長い看病で痩せて一回りほど小柄になった様なお義姉さんは、そうすればもう一度息をするかのように優しく撫でて々々、摩り続けていました。 お義兄さんの亡き顔見たよりも、そんなお義姉さんを見て涙が止まりませんでした。
高校生の時に父親を亡くして以来、一家の大黒柱として働き続け、若くして材木店を創業して成功を納め、不動産業にも転身して栃木県北で1,2の総合住宅会社に育て上げました。 兄弟姉妹全員の父親代わりで、ウチのダンナなんて本当のお父さんと同じ存在でした。 若い頃に結婚したお義姉さんが素晴らしい方で、姑・小姑・外ヨメ(ワタシもその一人)いっぱいの中で大所帯の苦労を物ともせずに内・外しっかり支えて、出入りの業者の誰もが「金のわらじ履いて探してもあんな奥さんはいない!」と何かにつけて頼る存在です。 ワタシは到底影も踏めません、真似も出来ません、到底! 食通のお義兄さんは、正月頃になると築地まで買い出しに出かけてはマグロやエビなど極上の寿司ネタを魚屋さんほど買って来ては親戚一同集めて、自分で握っては大盤振る舞い、当然ウチも一家でおよばれしてご馳走になり、帰りにはお土産まで頂いて来る毎年でした。
もちろん人生色々、兄弟関係も照ったり曇ったりとありましたが、ワタシは一応部外者、というか血が繋がっていないだけ冷静でいられたので、ダンナがお義兄さんと仲違いした時もどちらかと言えば”甘え”が見え隠れするダンナよりも苦労人のお義兄さんの方に軍配を上げましたね(もちろんこっそりと・・・(^_-)-☆) 一人っ子で育った孤立無援のkarinoからしてみたら『ぜいたく言うなよ、末っ子メ!甘ったれる相手いていいね〜!』と一言いってやりたいことがいっぱいありましたね。 ま、『そいつを言っちゃぁお終いよ』ですけどね。
お義兄さん、「川」のほとりに着いたら”直子”に言ってやってね。「こぉら、直子!親に先立つなんてなんちゅー親不孝だぁ!」って。 直子よ、おまえのお葬式に伯父さんは血の気の引いた白い顔で「直子の火葬場に行くのだけは勘弁してくれ・・・」って泣いて謝ってくれましたっけ。 声の大きい叔父さんを小さい頃のおまえは怖がっていましたが、本当は照れ屋で優しかったのよ。 亡くなる前の晩にひどく痛んだという背中をよく撫でてあげてね。
義理の仲なので言っちゃいますが、亡くなったお義兄さんは若い時は柔道段取り、《高橋英樹》似のイケメンで、屋号入りの紺の法被に前掛けでぶっとい材木担ぐ姿は評判の男前でモテモテだったのです。 10数年前に亡くなったお義母さんはそれをよく心配してましたものです。 「材木屋だもんね、あんまりいい男でも困るんだよ〜」って。でもお義兄さんはお義姉さん一筋だったですね。 あの世でお義母さんに「U輔、来るのが早すぎる!」って叱られてるかもです。
亡くなる一週間ほど前に、跡取りの孫息子さんが結婚しました。 お嫁さんの仕事の都合で両家の身内だけの式で、披露宴は後日にという事でしたので、祖父母、両親・姉妹だけの出席でした。 車椅子でしたが新郎新婦にお礼の言葉と洒落た帽子を を贈られ、最高の笑顔だったそうです。
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