有朋自紀州来、不亦楽乎。
2014/01/16 (木)

harenotikumori.gif □11:30 東京駅

紀州から高校来の友人が訪ねてくれた。予備校も同じなら、学部は違ったが大学も同じ。
名取の息子の顔を見に行く途中にといいながらも、わざわざ東京駅経由にしてくれたようだ。
名取なら仙台空港も近いし、それこそ関空からピーチがあるはず。
より東京駅らしいところと丸の内南口を指定、約束の時間少し前だったがすでに待っていた。
東京で会うのは、というか大学受験で一緒に上京して以来だから43年ぶりだ。

昼飯を食いながら、その時の話になった。
新幹線が開通してまだ数年後のこと。
思い起こせば、あの時初めて「ひかり」に乗った。いや安い方の「こだま」だったかもしれない。
出かける前にヤツの家で、コーヒーをよばれたのだが塩っ辛い。
おふくろさんが間違えて塩を入れたのだった。「出発前の清めだ」。
そのおふくろさんも早くに亡くなってしまった。
多摩川を渡って東京に入った途端、密集した住宅に「これが東京か」と思ったことをいまだに覚えている。
「1年目も、2年目も、見事に落ちたでなぁ〜」。
関西と受験日がずれる東京(の)大学を片っ端から受験したのだが…。
わたしはおとなしいボンボンだった(ホンマやで)がヤツは体育会系で、
新宿西口を、煙草をふかしながら歩いていておまわりさんに「お〜い、ちょっと」と呼び止められた。
「浪人だ」と言ったら許してくれたが…。そんな時代でも未成年者の喫煙は咎めたんですね。
今は、見て見ぬふりが多いのに。
1年目だったか、いま思えば、浅草六区あたりだったのか、
学生服の詰襟を折り曲げてコートで隠してS劇場に入ったよな〜(もちろん、親にはナイショ)。
これじゃ合格するわけない、ってか。

でも、どうにかこうにか大学生になって、お互い大阪と東京で社会人になった。
東京(の)大学受験に来ていたわたしは、大阪(の)大学の合否もヤツに確認してもらい、東京でその連絡を受けた。
入学手続きの書類も代わりに受け取ってもらった。
卒業時にはすでに上京していたので、これも代わりに証書を受け取ってもらい実家に届けてもらった。

帰和の際には時間があれば連絡をして何度か会っていたが、東京で会えるとは思ってもいなかった。
夜行バスで上京して、スカイツリーへ昇ってきた、という。
「まだ、わたしらもよう行ってへんのにか! きょうは天気がええんでよう見えたやろ?」
「団体さんいたけど、すいてたで。お〜っ、富士山も見えた」
60を過ぎて2年間同等の条件で置いてくれたが、
「できもしない仕事をやってくれというので、辞めろいうことやろうから12月いっぱいで辞めたった」だと。
「給料も下がらんと2年も置いてくれたんならええやんか」

飯を食ったあと「東京の卵焼きを送りたい。どこで買えるか?」というので、
大丸地下をのぞいてみたが見つからず(見つけられず?)。
「築地場外へ行ったらあるんやけどなぁ。テリー伊藤ちのも」
「どうせならそれがええわ」と行ってみるいう。
「ほんまに行くんか?」と何度も問うたが本気らしいので、八重洲口で別れる。
「和歌山へ帰ってきたら連絡せ〜よ!」。

 
蘖ひこばえの菜園作業メモ
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