「野球でこぼこ道」1。
2010/12/14 (火)

山ア夏生さん
山ア夏生さん posted by (C)hikobae


昭和30年7月2日新潟県上越市で生まれました。
高田高校で野球部に入り、3年間全試合出場を果たしました。これは、イチローも、松坂も成し得ていない記録です。
部員が少なかっただけですけどね。
大学でも野球をやりたいと思い、東京六大学を狙いました。唯一、公立の大学です。みごとに玉砕しました。
で、新宿の予備校に通いました。毎日、1時間ほど満員電車に揺られ、ある日、感じました。
「こんな毎日はとんでもない。人間が生活するところではない」と。
浮かんだのが、テレビで見た札幌オリンピックでした。そうだ、北海道がいい、と。一生懸命勉強しました。
野球には体と素質が必要ですが、勉強は野球と違い、やれば確実にレベルアップします。
北海道大学に入りました。即、野球部に入部です。
とにかく大好きな野球でメシを食いたかった。野球は人生のすべてを教えてくれると考えてました。
投手でした。3年間は順調でしたが、4年の春にケガをしてしまい、最終学年を棒に振りました。でも、最後の試合で1回だけ投げさせてもらえました。
当然、プロから声なんかかかりません。ドラフト当日は、電話の受話器に手をかけて待ってましたがね。

それでも、何としても野球の近くで仕事に就きたかった。卒業して、日刊スポーツに入りました。
プロ野球担当の記者をやらせてもらえるものとタカをくくってましたら、配属されたのは、販売局です。元気がいいからと。
ふてくされましたね。
野球はベンチにいる選手、あるいはベンチにも入れない選手も含めてチームが成り立ち、
そのみんなで戦っていることを、野球から学んだはずなのに、です。
そして、やはり野球への夢が諦めきれない日が続きました。
不満を募らせていたころ、日本シリーズを見ていて、ふっと気づいたんですね。
「審判があるじゃないか」と。
プロ野球の審判になるためにはどうすればいいか。
一番近いのがプロ野球選手経験者です。しかし、これはまず「×」。
次がアマチュア野球の審判から上がる。これも「×」。
3つ目の最後に残された道が「公募」です。公募といえどもある程度の経験者が応募しセレクトされます。
体力に自信がある人ばかりで、相当な狭き門です。結果的に審判も体が大きい人が多くなります。幸い、わたしの身長は183pです。
しかし、悪いことにその年の公募はすでに終了してたんですね。そこで思いついたのが、パ・リーグ連盟会長への直訴です。
「日刊スポーツ」の名刺を持っていたから会ってくれはしました。
用件の向きを切り出すと、「経験は?」「ルールブックを読んだことがあるのか?」などを問われ、玄関払いもいいとこです。
そこで、現役審判についてジャッジの仕方を学びました。ルールブックも何度も読み解釈しました。250ページを暗記しました。
そして、1年後、退路を断とうと決め日刊スポーツを辞めて、もう1回、連盟会長に会いに行きました。
あきれていましたが、特例として審判部のトレーニングへの参加を認めてもらいました。
野球が好きで好きでたまらない、そういう熱意だけしかなかったが、通じたんですね。

1982年3月、わたしの審判人生が始まりました。
提示された最初の年俸は160万円。高卒の給料より安い。日刊スポーツを辞めるときは360万円もらってました。
10年前、初めて妻をハワイに連れて行けた。そんな給料です。
野球界には「年俸序列」という言葉があります。選手を含め1,000人の中で最低でした。
一家4人が食べていくのに10年間、数々のアルバイトをこなしました。
毎日、へとへとになって生きていましたが、絶対、皆と同じ舞台に立ってやろうという思いで乗り越えました。
4年目につまずきました。ジャッジに自信が持てなくなり、ヤジも気になり始めました。
自分の技量の足りなさと、プロの怖さに気づいたのです。
結局、目の前の試合を一つ一つこなしていくしかないと悟りましたが、その後も1球の重さ、ジャッジの重さがプレッシャーになりました。

8年目にようやく1軍に上がれましたが、プレッシャーに弱い人間だという自覚がありました。
100%の力しか身に付いていないのなら、いざという時に80%の力しか発揮できない。
ですから、125%の力を身につけるための練習、努力は惜しまなかった。
それでも、ようやくプロの技量をつかんだと思えるようになるのに15年かかりました。

1軍に上がってからは平坦な日々が続いたが、もちろん挫折もありました。
1,000試合出場が一流審判として認められる一応のステイタスです。
ところが998試合で、また2軍に逆戻りしましてね。あと2試合が全うできない、悶々とした日が続きました。
母校の高田高校のグランドを見つめながら自問自答もしました。
辞めることも考えました。
しかし、一生懸命の結果が失敗続きでクビになることは恥ではない、自分から投げ出して辞めることの方が恥だと考えるようになりました。
幸い、まだクビの宣告はされていない。一生懸命がんばるだけだ、と。
若い者に混じって手を振り下ろす日がまた続きました。そういう姿は、やはり見てくれてる方がいるんですね。
まもなく、1,000試合達成することができました。

ところが忘れもしない2000年6月20日のロッテ対日ハム戦で、またミスジャッジをやってしまいました。
その試合は3塁の塁審で、ロッテ・大塚のポール際のファールをホームランにしてしまったんです。
日ハムの大島監督は、もちろん血相を変えて猛烈に抗議してきました。ベンチ裏のテレビで録画確認してきてますから、一歩も譲りません。
しかし、一度出した判定は覆せません。しかも、わたしの中では今でもあれは「ホームラン」です。
23分間の中段の末、抗議時間が長く、試合の続行を妨げたということで、また「退場!」です。
球場全体が大ブーイングでしたね。
その夜のプロ野球ニュースで流された映像では明らかにファールなんですね。しかも、試合を決めた一打でした。
翌日のスポーツ各紙でも大きく取り上げられたのはいうまでもありません。
大島監督は血を吐いて病院に行き、翌日は病院から球場に来たとあとになって聞かされました。
翌日の試合は同じカードで今度は球審です。
連盟から電話が来ました。「休んでくれんか」と。「今度、何かあったら知らんぞ」と言われました。
「知らんぞ」というのは「クビ」ということですね。
「ここで休んだら次も休むことになる」。「クビ」なら本望と、断りました。
わたしが入場したとたん「帰れ、帰れ、山崎」の大コールです。
異様な雰囲気のなかで試合が始まったが、無我夢中で何があったか覚えていないぐらいです。
試合の間中、妻は仏さんの前で手を合わせてくれていたそうです。何事もなく、試合を終えることができました。
家に帰って玄関で妻の顔を見たとたん泣き崩れました。大声を張り上げて泣けるこの仕事がますます好きになりましたね。
《12月16日へつづく》

 
蘖ひこばえの菜園作業メモ
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