2010/02/15 (月)
きょうも、寒い雨。
昨年は初回だけ観てパスしたNHKの大河ドラマ。 そしたら、暮れ近くになって、その地元へ行くことになろうとは…。 今年は、身近な?坂本龍馬だけにあって、家族して欠かさず観ている(これまでは…)。
きのうの日曜日に新聞に折り込まれたタウン紙に「千葉周作」の話が出ていた。
司馬遼太郎の小説「北斗の人」によると、ということで次のように紹介されていた。
周作の父・幸右衛門は奥州を転々としていた。 男ばかり3人の子どもを連れ、陸前(宮城県)栗原郡荒谷村に流れ、この村で遠縁の千葉吉之丞の養子となった。 吉之丞はれっきとした剣客で、幸右衛門に自らあみ出した北辰夢想流という流儀を教え込んだ。 だが、吉之丞も幸右衛門も剣の道では成功していない。 千葉氏は、戦国時代に現在の千葉県一帯を支配していた千葉氏の流れをくむ姓といわれている。 しかし、吉之丞や幸右衛門が生きた江戸時代には、正式には武士ではなく、千葉姓も自称しているだけであった。 それは息子の周作も同じである。 周作に剣の才能を見出した幸右衛門は、周作を江戸に連れて行くことを決意する。周作15歳の時だった。 しかし、江戸を前にして、幸右衛門が腰を落ち着けたのは松戸の宿だった。 松戸には、小野派一刀流の剣客・浅利又七郎が道場を開いていた。 幸右衛門は、周作を浅利道場に入れて剣術の修業をさせながら、自身は馬医として生計を立てようとした。 宿場町の松戸には多くの馬もいた。 周作は、めきめき腕をあげ、又七郎にも勝てるようになり、又七郎は自身の師匠に当たる江戸の中西道場に周作を出すことになる。 ここでも頭角をあらわし一刀流中西派の「本目録皆伝」を得た。
周作は、又七郎の養女と結婚し婿養子となるが、窮屈な生活は長続きしなかった。 皆伝書を返上し、離縁して松戸を出て行く。 松戸をあとにした周作は、江戸へ、そして上州へと武者修行の旅を続け、北辰一刀流の創始者として名を残すのである。 小野派も、北辰も、面、籠手など防具を付けて竹刀で打ち合い稽古するスタイルは、 当時としては新しく、現在の剣道につうじるものが大きい。 浅利道場で修業をしていた周作は、現在の松戸駅西側を通る旧水戸街道を闊歩していたに違いない。 父の幸右衛門は、馬医者としては「浦山寿貞」を名乗り、 やはり旧水戸街道近くの宝光院に「寿貞浦山先生之墓」がある。
今度、いちど歩いてみよう。
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