「108年ぶり」って、どうよ。
2009/09/14 (月)

harenotikumori.gif 「やっと解放されましたね」
野球が生まれた国で、日本人が108年ぶりに記録を塗り替える。
イチローはすごい、としか言いようがない。
相撲の朝青龍と違って、アメリカの人々も大きな拍手を贈ってくれているだろうし。

で、野球の話題。
先日、「奇跡の甲子園」を読み終えた。
朝日新聞の夕刊に掲載された16本の記事をベースにしているから、読まれた方もおられるかも知れない。
蔦監督も尾藤監督も登場するが、何度も何度も、繰り返し読んだ1本の記事がある。
語り継がれるあの30年前の星陵高校対箕島高校の試合の審判を務めた方々の目と心のドラマだ。

2塁審判・木嶋一黄さん。
 16回裏2死、リードされた箕島の打者が一塁にファウルフライを打ち上げる。スタンドの悲鳴。「終わったかな」2塁の審判、木嶋一黄は思った。その瞬間、フライを捕ろうとした一塁手がころぶ。ボールはグランドに転がった。
 命拾いした打者のバットが快音を放つ。木嶋は全力疾走しながらホームランを確かめ、右腕をぐるぐる回した。また同点。「こんな試合あるんか、奇跡や」。胸の中で叫んでいた。
(中略) 

 甲子園の審判となって4年目。30歳の夏。小さなミスが続き、逃げ出したくなった。「大会を降りたい」と先輩にいうと、「あと1試合やってみろ」。それが星陵対箕島だった。引き分け再試合目前の18回、箕島がサヨナラで勝つ。
「神様がくれた試合でした。『高校野球すごいやろ、お前、ほんまは審判やりたいやろ、がんばれ』といわれた気がした。あの試合まで、プレーを判定するだけが審判だと思っていた。審判もアマチュアリズムなんです。ぼくは心技体の心が欠けていたんですね」
 木嶋を励まし育てたひとりが「名審判」と呼ばれ、2006年に74歳で亡くなった郷司裕である。
 郷司は夜の語らいで、木嶋の肩を抱き寄せて、こういった。
「木陰で着替え、試合がおわれば汗を拭いて、すっと帰る。原点は、校庭や小さな球場でやる野球の中にある」
 木嶋はあの試合以来、落ち込んだチームのベンチに「元気だそう」と声をかけるようになった。いま日本高野連の審判規則委員長。若い審判たちに体験を語り、郷司らにおそわった精神を伝える。


3塁の審判は達摩省一さん。
 関西大学の監督時代、木嶋を教えていた。「あの試合は最高。もう十分や、ひきわけでええやないか、再試合させたいなあと何度も思った」
 達摩は寝屋川高校(大阪)で投手、別の高校で監督として甲子園をめざしたが夢かなわず、審判になってあこがれのグランドに初めて立つ。涙があふれた。


1塁の審判は吉田加寿男さん。
 城東高校(大阪)時代、甲子園に出られなかった。目の前でころんだ星陵の一塁手を気にかける。25年後、星陵と箕島OBの招待試合で再会し、彼が野球の指導者になっていたことにほっとした。

球審は永野元玄さん。
 土佐高校(高知)の捕手としてのぞんだ甲子園の決勝で、9回最後打者のファウルチップを落球、そのあと逆転負けした。あの日のつらさがよみがえった。
 永野は、退場する星陵の投手堅田外司昭をバックネット裏の通路で呼び止めている。「球場をもう一度みておきなさい」といい、腰の袋からボールを取り出して手わたした。
「ゲームセットのボールでは負けた時を思い出してつらいだろう。だから、試合の途中に使っていたボールにしたんです」

 堅田は松下電器に入り、社会人野球でプレーする。選手、マネジャーのとき、永野らと再会し、「転んだ一塁手は元気か」と声をかけられた。自宅に飾っていたあのボールにも、選手を思いやる審判の気持ちが込められていたことを知る。自らも審判となり、03年から毎年、甲子園でジャッジする。
「いろんな人の思いを受けとめたから恩返しをしたいし、選手に信頼される審判になりたい」
 07年3月の選抜大会で、審判の世界で一人前とみなされる球審を初めてつとめた。打球が投手の足をかすめた場面ではマウンド近くに駆けより、気遣った。
 試合後、かつて永野からボールをもらった通路に、木嶋が待っていた。ふたりは無言で握手した。
(後略)


 
蘖ひこばえの菜園作業メモ
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