2008/04/21 (月)
きょうの日本農業新聞に、つい読まされ、考えさせられる興味深い記事があった。 民族研究家・結城登美雄氏の「食の自給力『3%』」と題した原稿。 ぜひ、みなさん方にも読んでいただきたく紹介したい。
田植えの季節が近づくと思い出す俳句がある。3年前の5月、本紙「くらしの花実」欄に紹介された水谷繁之さんの次の一句。 《田植機を買ふ決心をして淋し》 使い慣れた田植機が修理をしても動かなくなった。米作りをやめる潮時か。迷いに迷ってようやく買う決心をしてみたが、なぜか心は少しも喜ばない。やれば赤字が増えるばかり。しかし米は命の糧、わが農業人生の中軸。田を荒らすのはしのびない。だが、この年であと何年田植えができるのか。 米作りを決心して「淋し」といわざるをえない老農たち。老いてなお、日本各地の田園に立つ人々の思いもまた同じではあるまいか。 (中略) 低いといわれる自給率もそれを作り支える人間の場所から見れば、軽々しく低いとばかりは言えまい。1億2700万人の日本人の食は、わずか312万人の農民と21万人の漁民の報われない労苦によって支えられているのである。 わずか3%弱の生産者が残り97%の強の人々の食を懸命に支えている。(中略)100人の日本村は3人の人々が土を耕し種をまき、舟をこぎ出し網を引き上げている。それを97人がわがまま放題に貪(むさぼ)り、不平をたれている村といえないか。しかも、3人の食の担い手のうち、1人は60歳以上で、もうひとりはすでに70歳をこえている。 問われているのは食料自給率ではなく、食を最初に作り出す「食の自給力」ではあるまいか。 統計によれば、この5年間で56万人が離農した。場当たり農政に翻弄(ほんろう)され、このままいけば日本村の食卓は老農1人が99人を支える異常な国になる。頭でこねまわす政策はもういらない。寂しさに耐え、きょうも山野河海に汗を流す人々に寄り添う支援が求められている。
農業を続けられる環境づくり、支援、理解を、国民みんなが同じ意識を持たないと、 日本村の食はつぶれるよ、ということではあるまいか。 もちろん、農家はそれに甘えるだけではいけないが…。
いつもの昼飯3人組。 そのうちの菜園先輩に、坊ちゃんの自家種を分けてあげたのだが、 ちゃんと芽が出て植え替える大きさにまでなっているという。 「あげた種かい? うちは全然出てこないから、種が悪かったかと思っていた」。 正直、あげたことさえ忘れていたのだが。 「何なら、苗持ってきてやろうか?」だと。 こんちきしょうめ。 どうも、わたくしめ、ポット播種・育苗というのがうまくいかないことが多い。 5粒のマンズナルは2本しか出ず、ホジホジすると、とろけてしまっている。 10粒のとうもろこしは、まだ3本。 坊ちゃんは、いっこうに動く気配がない。 カラーピーマンもしかり。 温度と水なのは百も承知だが、管理が悪い。
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