2007/11/08 (木)
気のせいか、いくぶんか朝の空気が冷たく感じる。 通勤にコート姿や手袋が見られるようになった朝だった。
全国各地に「鍛冶町」「鍛冶屋町」の名前はまだ残っているだろうが、 「鍛冶屋」自体死語になっているいまどき、「ふいご」を知る人も少ないのではなかろうか。 わたし自身も、遠い昔、子どものころ、 父親に付いて鍛冶屋(耕耘機の爪を直してもらっていた)に行き、 燃えたぎる赤い炎を見たという記憶がかすかに残っているだけである。 「ふいご」は、その鍛冶屋で金属を赤く焼く時に風を送る器械なのだが、 いまとなってはその形も浮かんでこない。 そのほか、籾摺り機の籾殻を飛ばすのも手回しの「ふいご」だったような………。
鍛冶など、ふいごを扱う人々の間で行われる「ふいご祭」というのがあるのだそうだ。 11月8日のこの日はふいごの神様を祀り、一日中仕事を休み、 働く人たちや親戚などが集まって、わいわい飲み食いする。 近所の子どもたちには、お供えしたみかんが配られた。 特に江戸時代には神田、日本橋において「ふいご祭」のみかんまきが盛会に行われ、 江戸歳時記の一つとなっているとある。
●ふいご祭と紀州和歌山みかんのかかわり
♪ 沖の暗いのに白帆が見える あれは紀伊国みかん船
おなじみの紀伊国屋文左衛門が、紀州みかんを江戸に届けるくだり。 難所といわれる遠州灘沖が荒れて海運が途絶えるなか、 命を張って船出した紀文蜜柑船伝説だ。 それが、1685年(貞亨2年)秋のこと。 「ふいご祭」になくてはならないみかんが届かず、江戸庶民ががっかりしていた。 そこへ、紀州から「ふいご祭」用のみかんを満載した明神丸が着いたということである。 こののち、紀伊国屋文左衛門が、莫大な蓄財をなしたのはご存じのとおり。
昨年、和歌山産みかんが生産量日本一になったのを記念して、 東京・大手町から神田金山神社まで、紀州和歌山みかん奉納時代行列を練り歩いた。 そして、日本橋での「ふいご祭」での紀州みかんまきを復活させた。
折りしも、きのう、紀州の早生みかんが大阪本場に初入荷し、 県知事やJAの偉いさん方が総出で、そろいの法被姿で紀州みかんをアピールしたらしい。 今年の紀州みかんは、「雨が少なかったため、やや小ぶりだが糖度は例年以上のうまいみかん」だそう。
土日は雨マークに変わったので、早起き収穫。 ◆収穫◆93:ルッコラ、水菜、食用菊 32:リーフレタス
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(1) 立冬の朝の畑。
11月3日に移植したたまねぎ。 立ってきてはいるが、下葉が白くなっているのが気になる。
(2) お黄にいりときゃべつは、収穫できそうに巻いたが、 アオムシがのんびり食事中…の可能性が大。
10月28日播種のえんどう豆類の発芽。 そら豆は土を押し上げてきた。もう少し。
(3) 満開の食用菊。
狭いところにびっしりの変わり大根エリア。
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