2007/05/01 (火)
のち、時々雨。 蒸し暑い朝だった。
早いもので、今年ももう、1/3が終わってしまった。 人によっては9連休もありだが、暦どおりのご出勤。 電車はすいているだろうと気楽に出たが、あにはからんや普段と変わらない。 「みんな休めや!」と思うが、「そういうお前は、どうなんじゃ?」と言われそうだし・・・。
きょうは5月1日。 メーデーといっても昔ほどの喧騒感がないし、死語になりつつあるのかな。
ある新聞におもしろいことが書かれていた。 (昭和の日は) 「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」(祝日法)と、 みどりの日からかわった。 大型連休の一日で終わらぬように昭和の日にちなんで、 こどもの日の柏餅や彼岸の牡丹餅、おはぎなどのように、 ふさわしい食べ物を定着させたらどうか、というのだ。 戦前派ならコロッケ、戦中派ならすいとん、 戦後派なら鯨の竜田揚げや即席ラーメンといったぐあいだ。
自分なら何を「昭和の食」とするか。 振り返って子供のころの食事を思い出してみると、 朝は、たいがい「おかいさん」(茶粥)をかき込んで学校へ。 そして、昼はまず給食だ。 アルミの皿や器にのったコッペパンに脱脂粉乳。 まれに食パンやココア味の脱脂粉乳が出ると喜んだものだ。 それこそ、鯨の竜田揚げも出た。 野菜をつくって売っている家に生まれたくせに、野菜嫌いだった。 給食の食材に、近所の人がほうれんそうを運び込むのを目にしたその日の給食は、 みんなの片づけが終わっても、まだ、ほうれんそうを飲み込めずにいた。
家で腹が減ったら、手を水でぬらして塩をぬり、 おひつからごはんを取り、にぎり飯にして食った。 ほかには何もなくても十分うまかった。
夜はどんなものを食っていたのだろう。 すぐ、頭に浮かんでくるのは、すき焼きだ。 毎日、すき焼きなわけはないし、魚を食っていたんだろうな、きっと。 だけど、海が近い紀州にいながら、刺身を食った覚えがない。 鯨すきもあった。 卵を産まなくなった鶏をつぶして、鳥すきというのもあった。 鯖と真菜の鍋(醤油味)もあったなぁ。 そうや、鰯(かたくち)の味噌煮きと、こけら寿司が大好きだった。 鰯は祖母が、こけら寿司は祖母と母とで作っていた記憶が・・・。 祖母と母がいっしょになって作るというのは、特別な日だったんだろうと思う。 農家の嫁の母は畑仕事で忙しく、食事の世話はもっぱら祖母だった。 その祖母によく文句を言っていた記憶がある。 カレーが大好きで、「それなら毎日作ってやる」と祖母。 レトルトなんて当然ない。私の分だけ別に毎日作ってくれた。 1週間も続いただろうか、だけど、とうとう根負け、作ってくれるのは自然消滅した。 カレーの食べ残しを戸棚に入れておき、時間がたつとカレーがご飯にしみこむ。 これがまた、うまかった。 さしずめドライカレー風とでもいうか・・・(そんな、ええもんちゃうけどね)。 すき焼き(もちろん牛)の残り汁にご飯を入れて卵を落とし、 焼いたというか煮いたのが、これまた絶品だった。
冷蔵庫は断熱材が入った銀色の箱。 「冷蔵庫 電気なければ ただの箱」。 当時の冷蔵庫は、まさしく箱だった。 扉はちゃんとついている。2室に分かれていて、上に氷を入れて冷やす。 毎朝(1日おきだったか?)、氷屋さんが配達に来てたっけなぁ。
現在のように外食なんてしないし、 せいぜい、出かけた昼飯に百貨店(デパートではない)の大食堂で食わせてもらったくらいか。 子どもの小遣いで食える、素うどんや洋食(お好み焼き)はおやつだった。
こうして思い出してみると、 私にとっての昭和の食というのは、というより、いま、食べてみたいと思うのは、 茶粥、すき焼きあとのご飯、こけら寿司かな。 茶粥、こけら寿司は、 それらしきものは女房どのも作れるが(しかし、頼んでもなかなか作ってもらえない)、 すき焼きあとのご飯は、どうしてもやらせてもらえない。 それと、いま一度味わいたいと思うのが「ビタラーメン」。 即席ラーメンなのだが、チキンラーメンより早く経験したような気がする。 たぶん、ローカルな即席麺だったとは思うのだが、 婆誰坂のおばちゃんならわかってくれるやろうか?
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