今年も残すところ245日。
2007/05/01 (火)

kumori.gif のち、時々雨。
蒸し暑い朝だった。

早いもので、今年ももう、1/3が終わってしまった。
人によっては9連休もありだが、暦どおりのご出勤。
電車はすいているだろうと気楽に出たが、あにはからんや普段と変わらない。
「みんな休めや!」と思うが、「そういうお前は、どうなんじゃ?」と言われそうだし・・・。

きょうは5月1日。
メーデーといっても昔ほどの喧騒感がないし、死語になりつつあるのかな。

ある新聞におもしろいことが書かれていた。
(昭和の日は)
「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」(祝日法)と、
みどりの日からかわった。
大型連休の一日で終わらぬように昭和の日にちなんで、
こどもの日の柏餅や彼岸の牡丹餅、おはぎなどのように、
ふさわしい食べ物を定着させたらどうか、というのだ。
戦前派ならコロッケ、戦中派ならすいとん、
戦後派なら鯨の竜田揚げや即席ラーメンといったぐあいだ。

自分なら何を「昭和の食」とするか。
振り返って子供のころの食事を思い出してみると、
朝は、たいがい「おかいさん」(茶粥)をかき込んで学校へ。
そして、昼はまず給食だ。
アルミの皿や器にのったコッペパンに脱脂粉乳。
まれに食パンやココア味の脱脂粉乳が出ると喜んだものだ。
それこそ、鯨の竜田揚げも出た。
野菜をつくって売っている家に生まれたくせに、野菜嫌いだった。
給食の食材に、近所の人がほうれんそうを運び込むのを目にしたその日の給食は、
みんなの片づけが終わっても、まだ、ほうれんそうを飲み込めずにいた。

家で腹が減ったら、手を水でぬらして塩をぬり、
おひつからごはんを取り、にぎり飯にして食った。
ほかには何もなくても十分うまかった。

夜はどんなものを食っていたのだろう。
すぐ、頭に浮かんでくるのは、すき焼きだ。
毎日、すき焼きなわけはないし、魚を食っていたんだろうな、きっと。
だけど、海が近い紀州にいながら、刺身を食った覚えがない。
鯨すきもあった。
卵を産まなくなった鶏をつぶして、鳥すきというのもあった。
鯖と真菜の鍋(醤油味)もあったなぁ。
そうや、鰯(かたくち)の味噌煮きと、こけら寿司が大好きだった。
鰯は祖母が、こけら寿司は祖母と母とで作っていた記憶が・・・。
祖母と母がいっしょになって作るというのは、特別な日だったんだろうと思う。
農家の嫁の母は畑仕事で忙しく、食事の世話はもっぱら祖母だった。
その祖母によく文句を言っていた記憶がある。
カレーが大好きで、「それなら毎日作ってやる」と祖母。
レトルトなんて当然ない。私の分だけ別に毎日作ってくれた。
1週間も続いただろうか、だけど、とうとう根負け、作ってくれるのは自然消滅した。
カレーの食べ残しを戸棚に入れておき、時間がたつとカレーがご飯にしみこむ。
これがまた、うまかった。
さしずめドライカレー風とでもいうか・・・(そんな、ええもんちゃうけどね)。
すき焼き(もちろん牛)の残り汁にご飯を入れて卵を落とし、
焼いたというか煮いたのが、これまた絶品だった。

冷蔵庫は断熱材が入った銀色の箱。
「冷蔵庫 電気なければ ただの箱」。
当時の冷蔵庫は、まさしく箱だった。
扉はちゃんとついている。2室に分かれていて、上に氷を入れて冷やす。
毎朝(1日おきだったか?)、氷屋さんが配達に来てたっけなぁ。

現在のように外食なんてしないし、
せいぜい、出かけた昼飯に百貨店(デパートではない)の大食堂で食わせてもらったくらいか。
子どもの小遣いで食える、素うどんや洋食(お好み焼き)はおやつだった。

こうして思い出してみると、
私にとっての昭和の食というのは、というより、いま、食べてみたいと思うのは、
茶粥、すき焼きあとのご飯、こけら寿司かな。
茶粥、こけら寿司は、
それらしきものは女房どのも作れるが(しかし、頼んでもなかなか作ってもらえない)、
すき焼きあとのご飯は、どうしてもやらせてもらえない。
それと、いま一度味わいたいと思うのが「ビタラーメン」。
即席ラーメンなのだが、チキンラーメンより早く経験したような気がする。
たぶん、ローカルな即席麺だったとは思うのだが、
婆誰坂のおばちゃんならわかってくれるやろうか?

 
蘖ひこばえの菜園作業メモ
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