2010/06/23 (水)
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今日、6月23日は沖縄 慰霊の日
正午 黙祷
沖縄戦(おきなわせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦(英: Operation Iceberg、氷山作戦)。
第二次世界大戦における日本国内での最大規模の陸戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった。国内唯一の地上戦と言われる事もあるが、硫黄島の戦いや占守島の戦い、南樺太での戦闘があるため、厳密に言えば誤りである。民間人が多く参加、ないし巻き込まれたのもこの戦闘の特徴である。
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了したとされる。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦[1]への流れの中に位置づけられる[2]。主要な戦闘は沖縄本島で行われた。日本軍は水際迎撃を避けて、持久戦闘を基本方針として戦った。特に首里(現那覇市の一部)北方で激戦となった。沖縄諸島周辺の海上でも、神風特攻隊を中心とした日本軍航空部隊や戦艦「大和」などと、連合軍艦隊の間で戦闘が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に、連合軍が首里を占領した。日本軍は南部に後退したが、6月下旬までに組織的戦力を失った。掃討戦は終戦まで続いた。
使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾6万18発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[3]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では鉄の雨や鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)などと呼ぶ。[4]
沖縄戦での全戦没者は20〜24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である。ただし、沖縄県出身者の死者15万人以上という一部研究者による推計値もある。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千人であった。
以上ウィキペディアより・・
今回沖縄に行って、いつもと違うところを回った。 真栄里の丘、民間人の犠牲が多かったところ。 サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア中将戦死の碑、白梅の塔、山形県民(?)の塔、陸軍部隊の塔、 回りきれないほどの塔がある。
塔の横には、壕として使われたガマ(洞窟)が、そのまま ある。階段がついているところもあるがとても近寄ることができずお参りをして帰ってきた。
きっとお参りをしたくても出来ない人たちも沢山いるだろう。 そういう人たちの替わりにも、関係がなくても、日本人だから、人間だからと理由をつけてお参りさせてもらいました。
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