もしも・・・
2010/03/21 (日)

harenotikumori.gif 風強く 黄砂であたりは霧がかかったかのよう〜〜

あまり咲いてないようでも 集めてみると ラッパ水仙2種と白い水仙、ヒマラヤユキノシタ、クリスマスローズ、雪柳で、黄色、白、ピンクの春らしい墓花が出来た。
ご先祖さんにはきっとあまり馴染みのない花だろうから案外喜んでくれるかもしれないと 結局定番の墓花は買わず、これを持って午前中に墓参りに行く。
途中でかなと達と合流し、寺町商店街でなんとも寂れた感のある十楽市を見て歩いた。
つまらんかったー。きっと今後その市へ出かけていくことはない。

昨日 11月に年金機構へ調査依頼した母の年金の回答が来ていた。
約5ヶ月かかったことになるが、Oさんは「1年くらいかかった」そうなので早いといえば早い。

本人が覚えていないような古ーい話。
母は生年月日から数えると昭和16年に女学校を卒業したことになり、そのまま就職したそうなのでその年の4月に社会人になったことになる。会社の名前も覚えていなかったけど、名古屋の老舗百貨店の前にその会社のビルがあったこと、上司の名前などはしっかり覚えていて、F火災の前身だったことが判明、今もその場所にその会社がある。
しかし その時点ではまだ年金制度が導入されていなかったのだ。
しかも1.2年で転職したそうなので、その会社での年金の加入記録はない。
昭和19年10月に初めて厚生年金の制度が始まったそうだ。年金とは名目で、そもそも軍需費用の捻出が目的だったらしい。
叔父に薦められた転職先は農協の前身で、全国農業経済会名古屋支所(だったことが分かった)。当時同僚だった人と今でも年賀状のやりとりがあり確かめて教えてもらう。
彼女からすれば その時の年金を受け取っていないことの方が意外だったらしい。
父と結婚(昭和20年11月)してからもしばらく勤めていた・・・ような気がする というのが本人の記憶(めっちゃあやふや〜)
最初、農協なら共済年金、共済は厚生年金とはまったく別なのでそちらで調べるように、と言われて指示されたところへ電話すれば、発足のその当時は共済年金ではなく厚生年金だったと言われ、また逆戻りして つまり社会保険事務所(年金機構)への調査依頼となった。
すったもんだ〜(><)
そして
19年10月〜21年1月までの加入記録が見つかった!!

もしも Oさんから「私、新しく年金が見つかったのよ」という話を聞かなかったら・・
もしも 母が勤めていた事を知らなかった私が「結婚前に働いていなかったん?」と問うことがなかったら・・
もしも 母が元気でいてくれなかったら・・
 
おそらく決して見つかることのなかった年金。

戦中戦後のドサクサの中を潜り抜け、資料がよく残っていてくれた という思いと、こんな風に見つけられることなく消えていったであろう年金の膨大な件数を思うと あまりにも無責任、いい加減な国のやり方への腹立たしさが ブワッと大きく膨らんできた!

 
barglの家庭菜園日記
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