天地有情
2011/01/26 (水)

今日は格調高く、、、、、

最近、南木ケイジ(漢字がでまへん)にはまっている。
天地有情というエッセイの中で南木氏が座右の銘にしている「天地有情」という言葉の意味のくだりがあった。

「自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。此のことは、お天気と気分について考えてみればわかるだろう。雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界は、それ自体として陰鬱なのであり、その一点景としての私も又陰鬱な気分になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身晴れがましいのであり、その一前景としての私も又晴れがましくなる。簡単に云えぱ、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。その天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が『心の中』にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない」

南木氏は医師であるがゆえに多くの患者の死を看取りうつ病になったが、この言葉に救われたそうである。

出所は哲学者大森荘蔵氏の言葉だそうだが、簡単に言うと「自然には喜ばしかったり哀しかったりする感情があり、自然の一点景にすぎない人間もそのおこぼれにあずかって喜んだり哀しんだりするだけだ。」ということになるのだろうか。

この言葉は哲学的な精神世界の表現だが、畑を耕し自然をいいなあと一体感を感じるごく自然な気持ちに近いとも思われるのだがいかがであろうか。
自己を開放し天地と一体になる爽やかな気持ちは悟りではないにせよ精神世界の憂いを払う入り口に立っていると思うのだが。

なるようにしかならないのだから、なるように畑を耕している姿はこの言葉の精神世界に近いような気がするのだが。

 
九十九里浜潮風日記
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